1983年09月

Entries Title

CALLING 4.

Date
1983-09-28 (水)
Category
LONDON CALLING

ロマンス二十才
イギリスに語学留学してすでに半年がすぎていた
学校というところとはとことん肌があわないのだろう
英語学校にはもう通わなくなっていた
もちろん英語はほとんど喋れなかった
英語学校で知り合った日本人の生徒たちの何人かと仲良くなって
いっしょにメシを喰ったり酒をのんだりというような毎日だった
日本といるときと同じような生活のくりかえしだ

仲間の中にトシアキという男がいた
ぼくよりも少し年上で
社会適応型のヒッピーという感じだった
彼はギターが弾けたので
ぼくの部屋でいっしょになって
ジャムセッションのまねごとなんかをするような仲だった
若い頃にロックの洗礼を受けたらしく
ロックやロックミュージシャンについてとても詳しかった
父親がひな人形の首をつくる会社を経営している
というような話を聞いたおぼえがある
おそらくは将来その会社を継ぐことになっていて
社会経験のためにイギリスに短期留学した
という感じだったのではなかろうか

トシアキが留学期間を終えて帰国する期日がせまっていたある日
ぼくは彼から運命的な助言をもらうことになる
いわく
「もし、こうたろう(ぼくの本名だ)がミュージシャンになりたいんだったら
N.M.E(週刊の音楽新聞)にバンド加入希望の広告を出すのがよい。
オレだったら絶対そうするね。」

ぼくは決してバンドマンになりたいと思って渡英したわけではなかった
ぼくの夢はその頃つきあっていたガールフレンドと結婚して
静かでラブリーな生活を送ることだった
親が教師だったから教師になるのがもっとも普通だと思っていた
勉強が苦手で教師になるのはむずかしいかも
でも幼稚園の先生ぐらいだったらどうにかなるんじゃないかと考えていた
父親がある幼稚園の園長と仲が良かったので
コネで雇ってくれることを期待していた

残念というか幸いというべきか
高校を退学になって教師の夢が遠のいた
ガールフレンドは転校生のことを好きになって僕を去り
彼女と結婚するという夢もここでついえた
まるで逃げるようにしてイギリスへの留学を決意したのだ
目的なんてあったもんじゃない

それでも音楽、とりわけロックは常にぼくのかたわらにいた
ロンドンでミュージシャンになるというのも悪くないと思ったわけだ
ぼくのミュージシャンとしての力量は本当にひどいしろものだったけれど
そんなものは関係ないほどにぼくは若かった

トシアキに言われたとおりに
ぼくはメロディーメーカー(これも週刊音楽新聞)の
ミュージシャン募集欄に広告を載せた

「バンド求む 日本人ベースプレーヤー バウハウスが好き」

バウハウスというのは当時人気の高かったゴシック系のグループのことだ
演奏はおそろしく下手だったけれど美意識が高かった
ギターを練習する時間よりも鏡の前にいる時間の方が長いような人たち

はたして広告はすばらしい効果を上げた
合計で40本ぐらいの電話がかかってきたのだ
当時のぼくはまだほとんど英語がしゃべれなかったので
電話での対応には苦労した
会話ができないためにせっかくのアプローチが無駄になってしまったのもあった
それでも何人かのミュージシャンたちとアポイントをとって実際に会った

はてさてけっきょくここでも
会話というものが成立しないので
軽くジャムセッションするしか他にやることはなかった
この人たちとバンドを組みたい
というようなミュージシャンとは出会ってなかった
おどろいたことに
彼らはみんなぼくのことを気に入っているようだった
バンドに加入するように
熱望してくれている人たちがいるなか
ぼくはまだそれにたいして
どうするか決めかねていた

数日後また電話が鳴った
アメリカなまりの英語
あいかわらず何を言っているのかよくわからなかったが
いつもとどうも様子がちがう気がした
なんていうかお遊びじゃない感じがしたのだ

電話の主に会ってみてその理由がわかった
お遊びじゃないのもあたりまえ、彼らはプロだった

彼らの出したアルバムや写真や新聞の記事などを見せられて
おそらくはバンドについての詳しい説明をされたが
もちろん内容は何ひとつわかりやしない
彼らの曲がはいったカセットテープをもらってその日は帰った

自分の部屋に帰って曲をを聴き
ベースのラインをコピーした
アクセントに特徴のあるベースのラインだった
たいしてむずかしいというわけではない

次に彼らをおとずれたときはベース持参だった
憶えた曲をバンドのリーダーの弾くギターに合わせて弾いた
途中リーダーに誰かから電話がかかってきた
どうやらぼくのことについて話しているらしい
エクセレント
という言葉が聞こえた
それがどんな意味なのか知るわけもなかった

そのような日が何日か続いた
ベースを持ってリーダーの家をおとずれて
新しい曲のベースラインを教わり
リーダーのギターに合わせて弾く
数日のうちに20曲ぐらいは弾けるようになっていた
すべての曲が気に入ったわけではなかったけれど
なかにはとてもすばらしいのもあった

できればこのバンドに加入したいと思っていた
リーダーとのセッションは
いわばテスト期間のようなものだと解釈していた
それにしてもずいぶん長いテスト期間である
ある日勇気を出してリーダーに聞いてみた

「あのう..ぼくはいつかこのバンドにはいれるんでしょうか?」

沈黙そして爆笑
しばらく笑い転げたあとでリーダーは言った

「きみは何日も前からもうバンドの一員だよ」

たぶん二日目のセッションのときに
加入の口約束をしたらしいのだけれど
例によって英語が未熟なぼくには
何のことやらさっぱりだったというわけだ

「ようこそ」

リーダーが手を差し出し、ぼくがそれに答えた
ベースプレーヤー「KOTA」の誕生だ


CALLING 3.

Date
1983-09-27 (火)
Category
LONDON CALLING

奇妙な旅行から帰国したぼくが
日本を脱出してヨーロッパで生活することを決意するまでには
そんなに長い時間を必要としなかった
もどったところは四国の田舎町である
これまでと同じ生活を続けられるわけがない

問題は金だったが
絶妙のタイミングで友達がアルバイト先を紹介してくれた

ちょっとわけありやけど給料はええみたいよ

それは町外れにあるゲーム喫茶店での仕事だった
表向きは喫茶店だったけれど
ドアの中は違法な賭博場だった
十坪ほどの店内に6台のポーカーのテレビゲームが設置されていた
テレビゲーム機自体はそんなにめずらしい物ではなかったけれど
よくみるとコインの穴がなくてかわりにお札を入れられるようになっていた
一時間足らずで十万円ぐらいのお金を使うお客もめずらしくなく
ぼくの仕事はお客がいなくなったらゲーム機の鍵を開けて
中にたまった千円札をかき集めて金庫にしまうという作業だった
警察が踏み込んだときにゲーム機にお金があるとまずいということらしい

そこには結局三ヶ月ぐらいいて
いろいろ語るにふさわしい経験をしたので
どこかで機会があれば話したいと思う
ひとまず話をロンドンに近づけたいので
今日のところはぼくがそこをやめるときのエピソードだけにしておきたいと思う

警察はもちろん金で買われていて
出入りがあるときは先に連絡がはいることになっていた
警察が来る頃には金を全部運び出して
そしらぬ顔で喫茶店の営業をよそおえばよい
一番下っ端のぼくは裏口から逃がしてくれると言われていた

そんなことは何も知らない交番の若い自転車警察官が
興味本位でそこのドアを開けたとき
運良くお客の姿はなく
ぼくはひとりで店番をしていた
いろいろ事情を聞かれて
どぎまぎしながら受け答えしたのだけれど
ぼくは決定的な失敗をした
つまり経営者の本名を警察官に告げてしまったのだ

数時間後
経営者やマスターやらがやってきて
現場はさながら混乱状態になっていた
若い警察官とぼくとのやりとりはお上に報告され
そのまま経営者まで伝わっていた

君ぼくの名前出したでしょう?

すみません

ええわしゃあない
ちゃんと説明せんかったこっちが悪いわ
次からは絶対に名前出したらあかんでよ

もちろん次があるはずはなかった

経営者によると警察の手入れは免れない状況らしかった
逮捕された時のことを想定して
まわりの人たちにてきぱきと指示を出して
自分はこれからシャワーを浴びてくると言う
しばらくまともに風呂も入れないということを
しっかりと知っているのだ

約束どおりぼくは一番に逃がしてもらえることになった
世話になった人たちへの挨拶もままならず
ぼくはまさに逃げるようにしてそこを後にした
それ以来そこには一度も行っていない
経営者が逮捕されたかどうかも
その後店やそこで働いていた人たちがどうなったかも知らない

ゲーム喫茶では朝の七時から夕方の五時まで働いていた
夕方の六時から深夜までは
別の喫茶店(こっちは合法だ)で働いていた
ぼくはもともと目的を達成するための努力は怠らない方だと思う
問題は目的がよくわからない時なのだけれど
その問題に出くわすのは20年ほど後になってからのことだ

そのようにして貯めたお金は
すぐに海外生活をできるだけの金額には足りなかったが
ありがたいことに残りは両親が工面してくれることになった
ぼくの親は公務員で収入は限られていたし
ぼくの他にも妹や弟がいることを考えると

もっと感謝をするべきだったと思うけれど
だいたいにして大事なことは後になってから気がつくものだ


  • Comments (Close) : 0
  • TrackBack (Close) : 0

CALLING 2.

Date
1983-09-27 (火)
Category
LONDON CALLING

高校を退学になり
続いてガールフレンドがぼくの元を去り
人生の目標を失って
なげやりな毎日をすごしていたあるとき
両親の提案でスイスに一人旅行することになった
母親の友人がチューリッヒで空手の先生をやっていて
まあクリスマスとお正月ぐらいの期間だったら
受け入れてあげてもいいよ
というような話だったと思う

クリスマスの前日だったっけ
スイスの空港に到着
空手の先生
迎えにきてくれたのはよいのだけれど
あいさつもままならぬうちに
まったく知らない外国人を二人紹介されて
彼らの車の後部座席に押し込まれてしまった

ヨーロッパは南もいいよ
しっかり楽しんでこいよ

何が何だかよくわからなかったけれど
道々よく考えてつじつまをあわせてみるとこういうことらしかった

二人の外国人はスイス人で空手の先生の生徒
彼らはおそらく大学生で今は冬休み
彼らは冬休みを利用して南ヨーロッパ旅行
たまたま訪れたぼくがそれに便乗

そのときは車のことなんて何も知らなかったけれど
いまにして思えばあれはルノーのキャトルだった
おもちゃみたいな車だ
車の中はおそろしく寒く
スピードは遅く
バックシートは狭く
乗り心地は最悪だった

二人のスイス人はひとりがフランツでもうひとりがダンツだった
フランツとダンツ
ちゃんと韻を踏んでいる

多くのことを忘れてしまった

憶えているのは
吹雪の中を走ったこと
ダンツがよく屁をこいて車内に臭いが充満したこと
フランスでホットドッグを食べさしてもらったこと
車の中の音楽がずっとアラビアンだったこと
言葉は通じなかったけれど
コミニュケーションをとるのに何も不自由しなかったこと
スペインの海辺のレストランで
パエリアを食べさしてもらったこと

ホットドッグのときもそうだったけれど
このときも食べているのはぼくだけで
二人はどこかに姿を消していた
二人で何かやりたいことがあるために
とりあえず食べ物を与えて時間を作ったのか
あるいは
貧乏旅行で三人分の食事代がなかったのか
真相は知るすべもない

バルセロナでは彼らの友人で医者だという男の家を訪ねた
医者はフランツダンツと同じぐらいの年齢らしかったが
同居の女性はずいぶん年上のように見えた
このときもぼくだけに
コップに入れられた水と干しぶどうがふるまわれた

夕食もごちそうになった
何を食べたかは忘れてしまった
食事の前に医者が紙でたばこのようなものを巻いていた
なんとなく悲しそうな表情だったのを憶えている
巻き終わったそれに火をつけて吸い
煙をはきだしてフランツダンツにまわした
彼らはそれを受けとらず
ぼくのところにまわってきたので吸った
後から思えばそれが
ぼくが生まれてはじめて吸った大麻だった

ぼくには何の変化もなかった
あまり質のよい大麻でなかったのかも知れない
そうでなかったとしても毎日の体験がぶっ飛びすぎていて
しらふでも四六時中ハイになっているような状態だった

食事の後でとても眠くなった
医者のガールフレンドが
oh your are very very cold
とか
your are very very sleepy
とか言ったのを憶えている
何かにつけてvery を二回くりかえすんだ彼女は

彼女が持ってきてくれた毛布にくるまって寝たように記憶しているけれど
それはぼくが後になってからつけたした記憶のような気もする

スティービーワンダーの
I JUST TO GO TO SAY I LOVE YOU..なんたら〜
っていう曲がヒットした年だった
1983年だったけ
もうそれはいやっていうほどあちこちが
スティービーワンダーだらけだった

カダキスという町ではもっと思い出深い経験をした
それはここで語るべきではないかも知れない


  • Comments (Close) : 0
  • TrackBack (Close) : 0

Return to Page Top